バンコクのインド人街
■バンコクのプラトゥーナム界隈のとある衣類問屋に入ると、明らかにインドで見かけた生地を用いているものがある。聞くと縫製はタイで行っているが生地はインドから輸入されているものだと言う。そう言われて目を凝らすと随分インド製の生地が多いし、ビンディやお香などといった雑貨・小物などもインドのものが多い事が判る。プラトゥーナム自体インド人移民が多く、私が宿泊したホテルの受付もインド系二世だった。
よく知られているようにラマ通りの『ラマ』、アユタヤなど地名・人名などかなりの頻度でインド発祥の言語であるサンスクリット語(のタイ訛り)が用いられている。日本と違いインドと地続きに繋がっているタイは古代よりインド文化を色濃く受け、本国では中世ヒンドゥー教の中に吸収され形骸化した初期型仏教が濃密に残り信仰されている。 何よりも現在のタイ文化に大きな影響を与えた中国文化自体、三蔵法師の例を引くまでも無くインド文化の影響下に成立したものでもあるのだ。
■このように古代よりタイとインドは密接な関係が存在したが、今日バンコクを中心にタイ諸都市で経済活動をするインド系移民の大半は19世紀に英領インドからの渡航者の末裔である。1800年代、現在もマレー半島に多く居住するタミル系移民がまずタイに入ったが、1920年代英領ビルマ経由でパンジャーブ出身者を中心に北インド系が多く流入、主流派を形成するようになった。このパンジャーブ系移民を巡って第二次大戦中暗躍したのが日本陸軍参謀本部第8課の藤原岩一少佐率いるF機関などである。
■彼らパンジャーブ移民の多くは商人であり、繊維関係のビジネスで財を成すものも現れた。ちなみにパンジャーブ出身者にはスィク教徒が多く含まれるが、タイに居住するスィク教徒はナームダーリーという菜食主義者が多い。彼らはターバンの色に白や青を用い、巻き方も通常のスィクとは異なるため見た目ですぐに判断出来る。
■そんなスィク教徒や北インド出身のヒンドゥーたちが最も濃密に居住している空間がパフラット市場である。現在バンコク市内にはサンペーン、スクンヴィットなど様々な場所でインド系の中小繊維商が店舗を構えているが、パフラットはその中心でありバンコクのインド人街とでも呼ぶべき異空間である。そこには彼らの精神的支柱であるグルドワーラー(シュリ・グル・スィン・サバー/1934年建立)の他インド系移民の経済的成功の象徴であるATMデパートやインド・タイ商工会議所、インド料理屋、神具屋、ビデオCD屋などが軒を連ね、タイの中にあってインドを感じさせる希少な場所としてガイドブックにも記載されている。
■03年12月、なんとそのATMデパートからの出火が原因でその大半が焼失してしまった。 『再建まで2〜3年はかかるね』 『多分半年もすれば元通りになるハズだ』
居住していたインド系たちは達観しているのか比較的のんびりしていた。その横には、既に新規進出が決まっているのかビルオーナーらしきインド系の紳士がATMデパート跡地を建築業者らしき一団と共に視察していた。果たしてかつての歴史と異空間ぶりを再現出来るのか、それともこの火事を期に全く新しいインド人街が創出されるのだろうか。あるいはインド人街自体、このまま消滅してしまうのだろうか…(04年2月7日)
火事によって消失したバンコクのインド人街
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